私のヨット観  こんな風に育まれました。

第一章:ヨットとの遭遇(学連ヨット部のころ)


大阪育ちの私が、父親の転勤のために高校卒業と同時に、姫路に引っ越すことになりました。
そういう訳で、学校は自宅から通える姫路工業大学(現、兵庫県立大学)ということに。

ヨットとの付き合いは、高校時代からの親友に誘われるまま、たいして興味もなかったヨット部に足を踏み入れてしまった事に始まります。
入部後は陸上トレーニングばかりで、初めてヨットに乗せてもらえたのは1ヶ月ほど後だったと思います。
ほとんど何のレクチャーも無く、いきなりハイクアウトやタックやらと、訳の分からぬヨット用語で踊らされ、一発目のジャイブでパンチ。
返ってきたブームに押し出されて見事に落水。
一瞬のうちに頭のてっぺんまで真っ茶色の海水に覆われ、ようやくヨットに引き上げてもらえたものの、肌寒い春風のなか、すごすごと浜に戻されてしまいました。
当時、昭和46年の大阪湾は、まさに醤油色に染まった異臭漂う海。
落水したショックよりも、目や口に浸入するヘドロのような海水の恐怖が強烈だったのを憶えています。

こんなろくでもないヨットデビューの日から2年間、私はひたすらクルーとして、移動スタビライザー役を演じていました。
強風下でのハイクアウトは辛いだけの単純肉体労働で、ほとんどヨットが嫌いになりかけていました。
このころ街を歩いていると、ヒューヒュー唸る電線の風切り音で、『強風パニック症候群』になりかけていたようです。

やがて3回生になって、私は晴れてスキッパーに昇進しましたが、我が校はクラブ活動補助金などスズメの涙の貧乏大学。
あてがわれたヨット(セールNo.3702)は、他校のスナイプ級より150KGほども重い超ドンガメ艇でした。
この艇、学連レースの計測ごとに、いつも他校のあきれ果てたような嘲笑をいただき、弱小ヨット部の悲哀を感じたものです。

この規格外ドンガメ、皆と同じようなスタートをしていたら、第一マークでは必ずビリになってしまいます。
私はこの1年間、絶対優位のスタートを切ることだけを目標にひたすら練習しました。
おかげ様で、世間並みの艇(セールNo.3747)を貰えた4回生では、ぼろぼろセールをトリムしてでも、トップフィニッシュすることができました。



第二章:ヤマハ勤務時代


ヨットに乗れるという雑技だけで、ヤマハ発動機に採用していただきました。
私が入社したてのころは、モーターボートの販売が主で、ヨットについてはまさに開拓期のようなものでした。
初めての勤務地は岡山県で、そこでは営業マン自らヨット教室を開き、お教えした生徒さんにヨットを購入していただき、 一緒にヨットレースに参加したり、クルージングに出かけたりして、楽しみながら仕事をさせていただきました。
このヨット教室を運営するには自分一人では大変なので、ガールフレンドを呼び寄せ無給アシスタントに仕立て上げ、デート代わりに手伝ってもらったりもしていました。 (今は妻になっております)
入社3年目だったと思います。 ヨット教室の無給アシスタントと結婚し、どうしても自分のヨットが欲しくなって、中古のヤマハ21JOGを買いました。
このヨットでは、妻や生まれたての長男を乗せて、豊島やら直島やら近くの島々を随分クルージングしたものです。
瀬戸内海の穏やかな風と波のなか、小型艇なので自分一人でもセールトリムを容易に出来たのが良かったのだと思います。
数年後、大学のヨット部OBとヤマハ30スカンピを共同購入したのですが、今思うと21フィート艇の方が楽しかったと思います。
個人差でしょうが、こじんまりした21フィートの広さが私は好きです。
寒い季節も、2〜3人しか入れない狭いキャビンで、ホットウイスキーを飲んだり、インスタントラーメンを作ったりしました。
月給15万円の頃だったと思うのですが、ヨットの代金やマリーナ保管料を払ってどんな風に暮らしていたんでしょうか。
【楽しむに苦労なし】だったのか、とても不思議です。

あのころ赤ちゃんだった長男が30歳になっています。
次男も末っ子の長女も社会人になりました。

今一度、私は23フィートのヨットで風を感じています。
ご一緒にいかがですか-------------------インストラクター:橋本修一    Top Page に戻る

ヨットの楽しさが分かるスクールです。